新年

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気持ちをどこに置いたらいいのかが分からない。取り敢えずどこにも……私が持ち得る可能性のある場所の、どこに置いても落ち着かないだろうから、個人サイトに投稿する。

年が明けた。12月31日にも「年末」と題して記事を投稿したが、12月31日と1月1日の間には日付の変更程度しか差異はない。そこに意味を見出すのは文化とか社会とか、とにかく人間の意識だけに依るものだ。

「年末」の記事を投稿したときスラッグを最適化するために「年末」を指す英単語を入れようとしたけど、改めて「年末」「年始」を一語で指す英単語って、ない。当たり前のことかもしれないけど。英語圏で12月31日から1月1日への移行ってそこまで重要視されてないのだろうか。やっぱりクリスマスがメインなのかな。あまり詳しくない。

例えば日本ではクリスマスムードを盛り上げるために街中に施されたイルミネーションは、きっかり12月26日に取り払われ、門松やしめ縄が目立つようになるが、英語圏だとそんなことないのだろうか。よく、12月26日が誕生日の人のあるあるとして「誕生日になった途端イルミネーションが撤去されて寂しい」というものが上げられるが、英語圏ではそんなことないのかも。今わたしは調べもせず適当なことを書いています。

「年末」の記事では敢えて年末っぽいことを書かなかった。そもそも、年末年始が苦手だ。クリスマスのことは好きで、愛しているのに。年末年始になると途端に所在なく、心細い。何だろう。年末年始の……極めて「家」に紐付く文化が苦手なのかもしれない。「年内」とかいう望んでもない締め切りを勝手に決められて、勝手に仕事を増やされる(ような気分になる)のも嫌だ。同じ話を「年末」にもした気がする。

わたしがいちばん覚えている年末の記憶は、姉の家に居候していた頃の年末だ。わたしは実家と没交渉状態だったが、姉は実家に帰省した。姉のアパートに一人、わたしは小さな音量で紅白歌合戦を流し、心細さに無意味にロリータを着ていた。寂しかったのだと思う。

当時の写真

わたしはどこにも年末っぽい……「今年はこんな一年だった」とか、来年への抱負だとかを具体的に書かなかった。他人のそういった文章を見ると、眩しかった。わたしには何も言えることがないと思った。

ただ……強いて言うのなら、2023年は置所のない気持ちを、置所のないまま持っていた。安易にどこにも置かず、ずっと抱えて、Nの前でだけ、愚痴のような、暴言のようなものを吐いていた。時に激しさを伴う感情をどこにも預けず、身の内だけに飼うことは苦しい。でもそうすることでしか、誰かにとっての都合のよい物語に組み込まれてしまうことから逃げる手段はない。年末っぽいことをどこにも書かなかったのも、都合のよい物語に組み込まれることを忌避する気持ちからだ。

誰かにとって都合のよい物語に組み込まれたくない。それがここ数年で強く育った忌避感だと思う。何故そんなことを思うようになったのか、という個人的な要因は幾つか思い浮かぶが、態々瘡蓋をほじくりかえすようなこともしたくない。ただそういうことがずっと不愉快で、気持ち悪かった。

大晦日の晩に食べたすき焼き 西の方では焼肉みたいにしてすき焼きを食べるのですね

鍋っぽくしたすき焼き こっちの方が見慣れてる

話は変わる。

1月1日、石川県を震源とする地震があった。「あった」というか、今もあるのかもしれない。震度5の揺れを知らせる通知と、大津波警報も鳴った。埼玉でも長い横揺れがあった。
Nの実家が中部地方なのでそちらが心配だったが、大きな被害はなかったらしい。ただそちらも大きく揺れたと聞いた。

……不安だ。漠然とした不安。所在のなさ。置所のなさ。こんなものを身の内に飼いながら生活を続けなければならないのか。怖い。

地震に関して……わたしにできることなんかほとんど無いだろう。不安になったところで……。でも、だからこそ怖い。明確な解決がないからこそ。捉えどころがないからこそ。

所在ない。この文章を個人サイトに置くことが、せめてもの寄す処になれば。誰の都合のよい物語に組み込まれることもなく、ただわたしの孤独にぽつりと灯る明かりになれれば。わたしの不安も忌避も苛立ちも混ぜ込んだ暗闇の、全てを照らすことは叶わなくとも。

おまけ 去年の干支を代表するミッフィーちゃんと、今年の干支を代表するアノラちゃん 背後でみかんを狙う関係のないスヌーピーさん

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