育つかもしれない種5つ

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日記に書くには長くなりすぎるが、単体で書くほどの文量はない話題毎の文章を纏めました。特に結論とかない。

・X、やめるべき。広告多すぎ人多すぎ下らない議論未満の小競り合いが多すぎ。見てると魂が穢れる。
見るのはともかく、postするのやめたい→でも結局鍵垢だからその抵抗って意味ないのでは?

「フォロワー数が多いから分母の少ないプラットフォームに移動して振り落としたい」とかもないし。実用性の側面でいうとわたしがXでpostをやめることに意味はあんまりなさそう。「魂を穢したくない」という誇りと気高さの側面での意味はある。



・人生がどんどん明るい方向へ行くのが怖い。
機能不全家庭や生活保護受給などを経て今に行き着いたのに、まるでそれらは関係なく、そんなものはなかった(なくてよかった)みたいに人生がどんどん明るくなるのが怖い。柔らかい尊厳破壊、ゆっくりとした来し方の否定だ、と毛を逆立ててしまう。



・フィクションを観て得たカタルシス、考察やら感想やら、を、すぐにSNSに投稿する手癖をやめたい。手癖でしかない。
鑑賞体験の記録、というお題目はあったが、記録したいだけならインターネットは向いてない。記録って難しいと思うようになった。記録しようと思って記録することは、常に「何を?」という問が付き纏う。取りこぼすものが必ずある。



・なーにが■■■■■■■■■■■■■だ。家猫が野良猫を羨ましがるワケねーだろ。特権階級と搾取される立場の構造的格差の話をしろ。そんなもんで多様性を語った気になるな。
構造と格差の話をしないままただ何となく“多様性”を明るくてハッピーなものとして定着させようとする様、上滑りにもほどがある。地獄の話をしろ。地獄を見ろ。地獄を知らんやつが観光気分で地獄を一瞥して分かった気になってんじゃねえ。

地獄を地獄として扱わないことは、地獄から生き延びてきたわたしへの侮辱ですらある。

結局わたしが障害者の立場から障害者と社会の繋がりを見るまなざしと、おまえら健常者が健常者の立場から障害者と社会の繋がりを見るまなざしは全然違うので、腹立つ。

本当のことを言うと、気に入らないやつらなんか全員殺してやりたい。生きていることの奇跡を享受しているから誰も殺してないだけで、そうでさえなければ全員殺してる。わたしが肉体を持たない亡霊だったら、呪いとなって、殺して殺して殺しまくってる。



・“夫婦仲”はかなりいい方だと思うが、共同生活が上手くいってる話はわざわざ人に話す必要がないので、どこにも言語化していない。言語化することで意図しない方向に解釈されたり話が運ばれたりする可能性がある、というのも言語化しない理由の一つだ。そもそも「そこに在って、在りつづけている様」をわざわざ言語化するのは難しい。
“夫婦仲”が上手くいってる話をするとして、わたし以外の他人のお陰、という結論にするつもりが毛頭ない。自分が選んできたことの結果だし、学びの成果だと思っている。実際そうだろ。共同生活が上手くいっていることを自分以外の他人のお陰と言うのはお行儀が良すぎるし、人生の舵取りを自分が握っているという感覚から遠くなる。
“夫婦仲”の話をするとしたらそれは「我々(わたしと配偶者の二人)」の話ではなく、「わたし」の話になるんだよな。わたしが何を選び、どう学びを活かそうとしているか、という話。配偶者は他人なので、わたし一人が「我々」の話をしようとするのって傲慢だし。
そういう話をもっとフラットにできるといいのにね。消費されやすい話ばかりではなく。
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