魔法の人参

 人生にはしばしば自分でも予想しなかったような奇妙なことが起こるが、これは度が過ぎているだろう、と志摩は思う。この世の車が全部モルモットになった。車体はふわふわと愛らしくなり、車内はもこもこの毛で覆われている。聞くと車がモルモットになってから、動物として存在していたモルモットは一匹も確認されていないらしい。車がモルモットになったのか。モルモットが車になったのか。卵が先か鶏が先か。
 とにかくモルモットとなった車はいつの間にか「モルカー」と呼ばれるようになった。モルカーは基本的に人間の操縦によって動くが、モルカー自体にも自我があるので人間の指示なしに動くこともときおりある。タイヤのような足でよちよち歩くように移動し、車体自体の柔らかさがエアバッグの役割を果たしている。燃料は草や人参などのモルモットの餌そのもので、車がモルカーになってからというもの石油問題や車が排出する二酸化炭素などの問題は大きく様変わりした。
 車の免許の制度も変わるのでは、と予想されたが、今のところ大きな変化はない。それというのもモルカーが、基本的には善性の生き物であることが分かったからだった。
 善性の生き物。或いは人間にとって都合の良い生き物──などと、志摩などは捻くれたことを考えてしまう。しかし、まあ、予想通りというか何というか、志摩の相棒の伊吹などはこの変化を楽しんでいるようだった。今も機捜車として使われている(飼われている、だろうか。モルカーを生物として扱えばいいのか自動車と同じ括りで扱えばいいのか、志摩には判断がつかない)モルカーに餌を与えている。モルカーはプイプイと鳴きながら餌を食べていて、伊吹は「旨い? よ〜しよし、かわいいなァ」とボンネットにあたる部分を撫でている。
「仕事も緊張感に欠けるな」
 志摩は伊吹に声をかける。一応、勤務中だ。しかし仕事に主に使う道具であるところの車がこんなに愛らしい顔をしていると、どうにも気が抜けてしまう。伊吹が志摩を振り返る。
「え〜、いいじゃん。それに車がモルカーちゃんになってから犯罪率も減ってるんでしょ?」
「ちゃんって何だよ」
「こんなにキュルっとしててさ〜」
 車がモルカーに様変わりして気が抜けてしまう人間はどうやら志摩だけではないようで、犯罪率が減っているというのは事実だった。しかし、ゼロにはなっていない。車が愛らしい姿に変わろうが、机の引き出しから四次元ポケットを持つロボットが出てこようが、悪いことを考える人間というのはいるし、志摩と伊吹のやるべき仕事も変わらない。

「俺、正直嬉しかったんだよね〜。つか感動した」
 モルカーに乗り込んで巡回を始め、暫くしてか伊吹が言った。モルカーに乗ると世界がアニメーション染みて見える。モルカーというフィルターが自分の目の前にかかって、世界がなんだか急に態とらしく見えてしまうのだった。志摩はこの違和に未だ慣れることができずにいる。しかし別にモルカー本人(本人と言うのが適当かどうかは分からないが)が悪い訳では無いので、誰にも言っていない。信号が赤になったので志摩はブレーキを踏む。モルカーは志摩の命令を大人しく聞いて、止まる。
「何が?」
「いや、だって、子どもの頃憧れなかった? ネコバスとかさ。モルカーちゃん初めに見たとき、ウワ、夢が現実になったーッ、と思って、興奮したんだよね」
「確かにな。それは否定しない」
「でもネコバスとかさ〜、子どもの頃いいな〜と思ってたけど、実際にあったら臭そうとかノミがたかりそうとか、つまんないこと言う奴いてさ。俺そういうの大っ嫌いだったんだよな」
「ああ、」
 それは、何となく志摩も分かった。空想は空想だから良いのであって、現実に持ち込まれたとき何が起こるのかは分からない。だったら空想には空想のままでいてほしい。もっとも、空想が現実になった途端ネガティブなイメージをしてしまうことは、それだけ現実に期待していないということにもなる。
 信号が青に変わる。志摩はモルカーを走らせる。
「夢の道具が現実になったところで、道具を使って良いことをするか悪いことをするかはソイツ次第だからな。四次元ポケットがあったところで、それが悪用されないとも限らない。実際モルカーが出て犯罪率は減ったにしろ、ゼロにはなっていない」
 そう言うと、助手席の伊吹は志摩をちらりと見た。──不満そうな顔をしている。運転中だから表情は確認していないけど、志摩は何となくそんな気配を感じ取っていたし、実際伊吹は不満げに唇を突き出していた。
「じゃあやっぱり夢の道具は夢のままがいいってこと?」
「人間が夢の道具に見合うだけ、良いことをしようとしていればいいって話」
「志摩ちゃんはモルカー初めて見たとき、どう思った?」
 伊吹の問い掛けに、志摩は考える。モルカーを初めて見たときどう思ったか? 何を思ったっけ。ああ。志摩は思い出す。
「伊吹が喜びそうだなって思ったよ」
 何だよそれ。助手席で伊吹が破顔する。
「志摩ちゃん、ホントに俺のこと好きねー」
 ねー、と伊吹はモルカーにも話しかける。モルカーはプイプイと鳴く。
 志摩は、本当にそう思ったのだ。伊吹は喜びそうだな、と。そして同時に、伊吹と初めてバディを組んだときのことを思い浮かべていた。あのとき。煽り運転を繰り返す犯人を、伊吹は玩具のステッキで捕まえた。魔法のステッキ。夢の道具。善性のモルカー。そしてそれを使う人間。
 志摩は、伊吹であれば四次元ポケットも人の役に立つことに使ってくれると、身勝手にも期待をしていた。
 突如モルカーが立ち止まる。車体ががくん、と揺れる。どうしたのか。志摩は慌ててモルカーの視線の先を追う。
 モルカーは歩道を歩く人の、エコバッグに入った人参に熱烈な視線を投げていた。
 志摩は脱力してしまう。伊吹は笑って、あとで人参買ってやるか、と言う。
タイトルとURLをコピーしました