椎名林檎YouTubeチャンネルにLive『椎名林檎と彼奴らと知る諸行無常』の「緑酒→NIPPON」の映像が上がっていた、が、動画のコメント欄に「日本に生まれてきてよかった!」とか「日本のことを考えて祖国を愛してくれてありがとう!」みたいなコメントが羅列していて、流石にセンシティブすぎるだろ! と叫んでしまった。センシティブすぎる。
本当に叫び出しそうだな。その動画のコメント欄をずっと見てると発狂しそうになる。
他人の、「あんまりそこら辺について真面目に考えてないんだろうな〜」みたいなところに直面したときに、どう受け身を取ればいいのか分からない。
もういい加減書いていいか。9月末で入籍した。それと同時期に友人から結婚式の招待を受けた。
異性愛恋愛規範前提の「結婚」概念のことをずっと考えてる。考えている、というよりは、恨んでいるのかもしれない。「考える」なんて前向きでクリエイティブな動詞ではないかも。
少し前にTwitterで「結婚式の加害性」という言葉がトレンド入りしていて、そこに対する多くの意見は「結婚式の招待状には『不参加』の欄もあるのだから、不参加と返事をすればいい。態々加害性だのという言葉は使うべきではない。」だった。その意見は正しいだろう。でも今のわたしは、かなり「結婚式の加害性」寄りの思考をしている。
結婚/婚姻が祝福されるべきものとして扱われていることは分かる。でもそこに纏わる汎ゆる作法の観点から「こうすべき」と取り決められていることについては、ダルいな、というのが本音だ。
自分自身も入籍をしたが、結婚式を行う予定はない。一般的にイメージされる披露宴をやるとして、わたしはまず実家の人間を呼びたくない(というかそもそも入籍したこと自体報告してない)。招待できる友人もほとんどいない。配偶者の実家が寺なので、もしかしたら仏前式とかはやるのかもしれない。知らん。それは義実家の事情に合わせるだろう。
なんか結婚式に関することについて書こうとすると、途端に文章が散乱するな。だから今までどこにも纏まった文章を書けなかったんだけど。
結婚式/披露宴をやる上での……汎ゆる前提に自分がいないことが恨めしいのかもしれない。新郎新婦共に実家との関係が良好であることや、招待できる友人知人がある程度いること、などの……。それが個人的なコンプレックスを拗らせただけのしょーもない恨み言だと言われれば、特に反論はない。
「結婚式の加害性」という言葉を使った人が何を思ってその言葉を漏らしたのかは知れない。ただ……その言葉は大抵狩られるだろうし、その言葉を使った人が抱えるものは、大抵切り捨てられる。そういうことを考えると、自分が嫌だと感じていることとか、違和感を覚えるものって、別に大事にされるものじゃないんだな、寧ろぞんざいに扱われるものなんだな、と思う。
冒頭の椎名林檎YouTubeチャンネルの動画コメントについても、そこについてとやかく言うことはファンにとって無粋なんだろう。知らん。少なくとも椎名林檎のファンを自称する人の前でわたしの叫びは語りたくない。
何かについて意見を表明すること、何かについて語ることの多くが……最早それ自体への不信感がある。
ジャニーズ事務所の性加害問題について検索していたときも強く思った。社会問題を取り扱うことが仕事ではない人たちのポストの多くは、まるでスポーツ観戦みたいだな、と。社会問題を、幾つかの勢力の争いみたいに捉えて、どの勢力を応援するかのスタンスを表明し、「敵」のスポンサーを叩いてるみたいだった。
何かについて積極的に語ることって果たして本当に良いことなんだろうか。老若男女が等しく多弁になることが、果たして絶対的に善いことなんだろうか。多弁になることそのものは手段のはずなのに、手段が目的になってるように感じる。そして蔑ろにされるものは相変わらず見向きもされない。
透明にされてるみたいだ。或いは透明のままでいることが最も安全で賢いのかもしれない。
『コタキ兄弟と四苦八苦』の第二話のことをずっと想ってる。