眠気覚ましに

 夢を見た。
 女神のような人が目の前にいる。あたりはドライアイスを溶かしたように靄に満ちている。自分はそれを、なんだか安い舞台装置みたいだなと冷静な目で見ている。女神は自分の目の前に降臨していて、なぜかそれが泉の精であることが分かった。よくある、あなたが落としたのは金の斧ですか、銀の斧ですか、と聞いてくるやつ。女神の顔はなんとなく桔梗に似ている。いや、よく見ると似ていないかもしれない。ただ美人だってだけで。
 女神が口を開く。さて金の斧か銀の斧か。
 しかし女神は突拍子も無いことを言った。
「もう苦しまなくていいですよ」
 もうあなたは苦しむ必要はないのです。
 今まで感じてきた全ての苦しみから私が解き放って差し上げましょう。
 あなたが、誰かに教えを説くとき、物を書く人の背中を眺めるとき、ウイスキーの香り、夏の匂い、扇風機が回る音、サイレン、遠くから来る電車の音、女の髪を留めて後れ毛がたれる首筋、そういったものの、すべての苦しみから私が解放してさしあげましょう。
 もう苦しまなくていいですよ。

 変な夢みた、と言って伊吹が起きてきたのは、丁度志摩がコーヒーを入れ終わったときだった。分駐所で仮眠を取り、起床時間の三十分ほど前に志摩は目が覚めてしまった。多分二度寝もできないだろうと起き出してコーヒーを入れていたら、伊吹が来た。志摩ちゃん、俺、変な夢見たよ。
 伊吹が起き出してくるとは思っていなかったからそれなりに驚いて、まだ仮眠時間あるぞとも言いかけたけど結局
「コーヒー飲むか?」
 とだけ口にした。
 寝起きの伊吹は目元に皺を寄せて人懐こく笑う。
「コーヒーちょうだい」
 そう言って志摩は近くのソファにどっかりと腰掛け、欠伸をしたり髪を掻いたりする。志摩は湯沸かし器にもう一人分のお湯を沸かしながらコーヒーを啜った。
「つーか志摩ちゃん、仮眠時間まだあんじゃん」
「それはお前もだろ。俺は多分もう眠れないから」
「俺はもっかい寝ようかな〜」
「コーヒーなんか飲んだら眠れなくなるぞ」
「俺はコーヒー飲んでも眠れる体質だから」
 それは眠気覚ましのコーヒーの意味がないんじゃないのかと思ったが、不毛な議論になるのでやめた。溜息で話題を流して、気になっていたことを訊く。
「それで、変な夢って?」
 パチリ、とスイッチが切り替わる音がして、お湯が沸いた。
 伊吹は、あーそうそう、と逸れた話題の元の道筋を思い出し、ついでに大きな欠伸をまた一つ零した。欠伸混じりに話すから彼の発音がふにゃふにゃと頼りないものになる。
「うんとねえ、何だったっけな。あれ。さっきまで覚えていたのに」
「忘れるんだったら……」
「あ。思い出した。志摩ちゃんが定年退職する夢」
 ──忘れるんだったら、大した夢じゃないだろう、と言いかけて、伊吹がそれを遮ったから、否定できなくなった。
「ふうん」
 なるべく、なんてことないように聞こえるよう、息と声の配分を調整して、相槌を打つ。ふうん。俺が定年退職する夢ね。
 伊吹の分のコーヒーが入って、キッチンを回り込み志摩はカップの取っ手を伊吹に向けてコーヒーを差し出す。伊吹はそれを両手で包み込むように受け取った。
 伊吹の夢の話は続く。
「志摩ちゃんが定年退職するっつって、機捜のみんなでお祝いしてんだよね。なんかデカい花束とか貰ってて。みんな拍手してて、志摩も笑顔で」
 志摩は伊吹の向かい側にあった椅子に腰かけて聞く。
「定年になった俺はどうだった?」
 今から三十年前の自分が現在の自分を想像できなかったように、現在の志摩も、定年の自分の姿は想像できなかった。案外今の自分とさして変わらないのかもしれない。これまでの人生で、老いてゆくことの不便さと快感をどっちも知って、それが更に十年、二十年と時を重ねた先の自分を想像することは、果てしない気分になると同時にしかしそれが思うほど遠いものではないことを、知らしめられるようだった。
 伊吹はちらりと志摩を見遣る。志摩も伊吹の方を見ていたから、目が合った。薄暗い部屋の中で伊吹の、目とか鼻とか、顔を構成するパーツの輪郭だけが、ぼんやりと霞んで見えた。
 伊吹は首を横に振る。
「ううん。志摩ちゃんは今とそんな変わんなくて。つーか、志摩ちゃんは定年じゃないんだよね」
「は?」
 思わず低い声が出る。何だその急展開。
 構わず伊吹は話し続ける。
「でも志摩ちゃんが定年じゃないことを知ってるのは俺だけで。そんで、おかしいじゃん!、つって止めようとすんの。定年じゃないのに定年退職って、おかしいじゃん!、って。でも全身金縛りになったみたいに身体が動かなくてさー」
 伊吹はまるでそのときの苦しみを再現するように、団子虫のように長い手足を縮め、妙な顔で揺れてみせた。やめろ、コーヒーが溢れる。
「おかしいじゃ、ないですか〜、って言いたいのに言えない。ていう夢」
 芝居掛かった声を震わせて言う伊吹を眺め、コーヒーを再度啜り、志摩は一言コメントした。
「変な夢だな」
「だろ!? 言いたいことも言えないなんてさ〜」
「まあ夢は深層心理を映すとも言われているから、真面目に夢分析をすればお前の無意識を意識することもできるかもしれないけど」
「あ? むじーこと言ってんなよ」
 伊吹は志摩の言葉など歯牙にもかけず、コーヒーを味わうというよりは飲み干す勢いでマグカップを傾ける。志摩は窓の方を見遣る。ブラインドの隙間から光が漏れはじめていた。
「まあでも、」
 不意に伊吹が言う。空になったマグカップを指にぶら下げている。
「志摩ちゃんが定年退職するって日に限って、俺が言いたいことも言えないままだったら、嫌だな」

「結構です」
 志摩は、女神の誘いをきっぱりと断った。
 確かに魅力的な誘いではあった。もう苦しまなくて済むのなら、歯を食いしばってまで生きていく必要がなくなるのなら、確かに志摩にとってはご褒美でさえあった。
 でもそれは今じゃない。これまで耐えてきた苦しみが丸ごと裏返って、志摩にとって甘やかな優しさに変わり志摩を包むとして、それは今ではない。
 今はまだ、志摩にはやるべきことがある。なすべきことを一つひとつこなしていく過程で、志摩はまた、女神が挙げていったような苦しみに打ち当たるだろう。同じ苦しみに呻くことは、ともすれば億劫でさえあったけれど、それさえも超えて、志摩にはなすべきことをやる義務と責任があった。ご褒美はそれが済んでからでもいい。今じゃない。
 そして、何よりも。
「相棒が、待っているんで」

「伊吹」
「んあ?」
 呼ばれて振り返ると、存外志摩の顔が近くにあって伊吹は驚いた。大袈裟なリアクションをする伊吹に志摩は眉一つ動かさず、
「歯、食いしばれよ」
 とだけ言う。
「は?」
 唖然とする伊吹を他所に志摩は伊吹の襟首を鷲掴んだ。
 そして頭突きを一つ見舞いしてやった。
 ごん、と小気味いい音が二人の頭蓋骨の中に響く。
「いッたア!?」
「はは、」
 志摩は笑う。笑うけど、恐らく伊吹が感じているだろう痛みと同量の痛みを、額に感じる。
「夢見て気落ちしてたじゃん。だから目覚ましてやろうかと」
「は? 最悪の目覚ましなんですけど」
 やり返させろだの嫌だだの何だの、言葉の応酬を交わしていると時計が起床時間を指し示す。朝がやってくる。
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