「全体」の話ではなく、「わたし」という極めて個人的な話です。個人サイトっつってるし、期待しないで下さい。
芦原妃名子さんの事件、『セクシー田中さん』の騒動を受けてから、インターネットがずっとつらい。
最初に断っておくけど、わたしは『セクシー田中さん』をドラマも漫画も知らない。況して芦原妃名子さんのファンでもない。どちらも今回の事件で初めて名前を知った。
ただメディアミックスに纏わる凡ゆる……意見が、憶測が、態度が、ニュースが、つらい。
件に関する記事は、下記がいちばん納得の行く文章だった。一応貼っておく。
これは今回の話題に限らず、昨今の全体的な風潮について、そして今更わたしが言うまでもなく誰もが何度も言及していることだが、“正しさ”“正義”の名を借りた強い言葉の応酬がつらい。そもそも強い言葉や強い感情に当てられ続けるのがつらい、というのもあるけど、そうした風向きに当てられているとき、わたしという一個人に芯がなく、証明できるものが何もないような心地に晒され続けるのが苦しい。
四年前、ドラマ『MIU404』と出会った。『MIU404』の物語に触れて、正義の得難さや人間で在り続けることの難しさを感じた。当時の感動は本物だったし、わたしを支える芯の一つになった。正義って何か一つの大きな権威ではなくて、小さな、目の前にあるものの積み重ねだよね、人間で在ることは何かのきっかけで脅かされてしまうかもしれない、そのきっかけはどんな立場の誰にだって起こり得ることだよね、だからこそ、という物語だった。わたしはその物語を信じた。『MIU404』の脚本家・野木亜紀子さんは『セクシー田中さん』の件についても脚本家の立場から積極的に発言している。
でも『MIU404』って嘘じゃん、と思ってしまったことがある。今の配偶者と同棲することを決めて、引越しの準備をしている時期だ。『MIU404』を観てから二年程経った時期。物語がわたしを裏切ったのではなく、わたしが物語を裏切った。信じられなくなった。どんな素晴らしい虚構も、苦しみの前では薄っぺらい紙切れだった。
当時の切実さを、現在のわたしはほとんど忘れてしまっている。忘れているけど「嘘じゃん」と思ってしまったことの尾は、今も引いている。「正しさ」について玉石混淆の意見が交わされるとき、その最中にあってわたしは何も信じることができず、立ちん坊になる。
「世界って最悪だけど歯を食いしばってやっていこうね」と、今のわたしは他人にも自分にも言うことができない。「嘘じゃん」と思った過去の自分が、わたしの背中を見ている。その視線を無視して口から出る言葉は嘘ですらない偽物だろう。
今はまだ、立ちん坊のまま足を休めている。背中に過去の自分の視線を受けながら。