まな板の上にミルク

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配偶者の職場の人に自創作文庫本を買ってもらった。そういうパターンもあるんだ〜となった。

義弟と通話しながらゲームしたり、配偶者の幼馴染と東京で会ったりした。対人運が上昇している。

配偶者の幼馴染とは新宿で落ち合う予定で出掛けた。重度の引きこもりにとって久々の外出だったので、何もかもが眩しかった。外ってなんかめちゃくちゃ広くてめちゃくちゃ人が多いらしい。

以前は人の多さや情報量の多さに酔っていたが、情報処理能力の許容量を遥かに超えてしまい、BGMにしか感じなかった。全部灰色に見える。

一ヶ月分くらいの“外”を浴びたな。しばらくは引きこもりに戻る。暑いし。

冒頭の話に戻る。自創作本の話。

久々に自創作本のことがわたしの意識の上にのぼったとき──なんていうか、思考のまな板みたいなのがあって、その上に自創作本が久々に置かれた。そういうイメージ。「俎上に載せる」とでも言えばいいのか──自分の文章への面倒臭い気持ちが噴出しそうになったが、それよりも素直な「嬉しい」とか「喜び」とかの感情を優先させた。これはわたしが配偶者と一緒に暮らす中で学習できたことだ。

でも、やはり自分の文章への面倒臭い気持ちはある。

ありがたいことにわたしの文章を好きだとか文章を褒められたことはこれまでも何度かある。その度に〈面倒臭い気持ち〉がゆらりと立ち上がる。先に言っておくけど、これは褒めてくれた人たちが悪いという意味ではないです。完全な一人相撲。

久々に〈面倒臭い気持ち〉が立ち上がって、改めて考えたのは、これはわたし自身が「自分が何を書いているのかが分かってない」ことに起因しているんじゃないだろうか、ということ。わたしはあまり自分が何を書いているのか(或いは何を書いてきたのか)が分かっていない。

以前文章を書く際の感覚を「ピジョンミルク」と形容したことがある。全部呑み込んで、全部吐く。今でもそれは言い得て妙だったと思う。全部呑み込んで全部吐いてできたものがわたしの文章たちだ。それが何なのかは判別のしようがない。

感覚的なところを離れて言い表すのならば──つまり主観を離れ、現在から過去を推測するのならば──やっぱり愛着の問題なんじゃね、と思う。自分が表現したものがどうリアクションされるのか。そこからどう人間関係を築いていくのか。その応酬と学習がブチ壊れていたから、吐瀉物みたいにしてしか書けなかったんじゃね?

そして自分でも何かよく分かっていない(でも紛れもなく自分が産み出した)ものに「いい」とか「悪い」とか言われても、どう受け止めればいいか分からないだろう。

今回自創作本の購入の話をもらって、わたしが「嬉しい」とか「喜び」とかの感情を一先ず優先させたことは良い傾向だと思う。誤解なきよう書いておくけど、これまで文章を褒められたり自創作本を買ってもらったりしたことが嬉しくなかった、喜ばしいことではなかった、という意味ではないです。

愛着を持つことを学習したい。大人なので(肉体の年齢としての意味ではなく、努めて主体的に選びたい、という意味で)。

対人運が上昇してるっつったけど、引きこもりを極めているので、たまにある配偶者以外の人との会話で自分が割と〈会話〉できてるとびっくりするしホッとするね。でもそれは「引きこもりにしては」なので傍から見たら普通に挙動不審なのかも。分かりません。仲良くしてください。

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