頭の中に丸々太った蛇が巣食ってとぐろを巻き、細い舌を波立たせながらシューシュー音を立てている。蛇は肥えていくばかりなのでいずれその質量は私の頭蓋の容量を超えて内側から破壊する。そうなる前に尻尾を掴まなければならない。ずるずると、引きずり出さなければならない。丸々太った蛇を。重さに手が負けそうになっても。
誕生日を迎えて、病院に行った。それから嫌なことばかり起きる。その前は良いことばかりが起きて嫌な気持ちになっていた癖に、次は嫌なことばかりが起こって嫌な気持ちになっている。良いことばかりが起きるせいで嫌な気持ちになるのと、嫌なことばかりが起こって嫌な気持ちになるのは、結果は同じなのだから前者の方が屈折していて不健康に思うかもしれない。
良いことばかり起こって嫌な気持ちになるのは、夢の中で雲の上を歩かされている嫌さ。不安定さと透明さ(べつに見たいとも見たくないとも思っていないものでも、何でも、よく見える)に構成されている。
嫌なことばかり起こって嫌な気持ちになるのは、もっと重みがある。デカくて固くて平たくて銀色のもので思い切り殴られてそのまま潰される。そんな重さを持っている。
嫌さの種類が変わったのだ。憂鬱に過ごした日々が別の憂鬱さで章を変えた。
ママがまたあたしを探しているらしい。意味ない。だってママが探しているあたしはもう死んだから。ママは幽霊を追っている。幽霊をぬいぐるみに宿らせてそれを愛でることであたしを愛でようとしている。意味がない。そんな儀式したところであたしには指一本触れられやしない。でもママにとっては意味なくない、意味ないことが悪いこととも限らない。でもあたしはママの儀式に協力しない。死人だぜ、それ。
義務感と定点観測によってまとまった量の文章を保存してきた。ここは冷蔵庫の景色に似ている。もっと取り出して温めやすくすればよかった。意義のあることがしたかった。じぶんじしんの意義を認めている人が羨ましかった。本当は最中に意義なんか分からない。ただただ夢中で手を動かしてきただけ。物事の意義は後から決まる。私はあの、ピンクのさかなが描かれた本のことを、本当に意義深いと思っているけれど、あのピンクのさかなは自分が意義深く存在していることなんか知っていたんだろうか。
みんな意義深く存在していたいように見える。ものごとの道理を鋭く見つけて語れる人物になりたくて、みな賢ぶりたいように見える。どうでもよいことに定義を求める。
この頃どんどん自分がばかになっているのを感じる。「ばか」なんて何にも考えていないときにさえ口を飛び出してしまうような軽くて扱いやすい言葉だけれども、しんじつ自分がばかになっているのを感じる。毛を逆立て、警戒し、怯え、嗅覚を研ぎ澄ませ、命を感じていたのが、鈍く、甘やかされ、身を肥やし、命を忘れていっている。環境に依るものだ。分かっている。私という一個人に依存する変化ではなく、環境が変わり、私がそれに影響されたからだ。わたしも変化しなければならない。一度脱皮した皮をもう一度着ることはできない。
冒頭、太った蛇の話をしたけれど、現実のわたしの肉体も太ってきている。化粧をすると、まだうんと可愛い。目鼻立ちや、足首や肩に、まだ以前の、自分のことを世界一可愛いと思えていた頃の、名残が残っている。でも他のほとんどは、ぜんぜん駄目だ。わたしはわたしの肉体のことが分からなくなって、わたしの肉体は磨り硝子越しのぼやけた物体のまま、本当は怪物かもしれないまま、日々を過ごしている。わたしの肉体は長いあいだ祝福されていない。わたしによって祝福をあげなきゃ。
身体を絞るって表現があるけれど、あれって身体がレモンになっちゃって、強い力で絞られているみたいだよね。
もう集中が持たない。万年筆だったら、インクが掠れている。またこういうものを書きたい。なるべく意味のない文章たちを。本当に集中が持たないね。ゼイゼイ、だよ。