11/18 mon.
個人サイトに日記纏めて上げるやつ月曜始まりにしてみる。
元気ない。マジで何も楽しくないし何も面白くない。何もかもがつまらない。何のために生きてるのか分からない。というか「何かのために生きてる」という今までの姿勢が欺瞞に思えてきた。嘘吐き野郎。
別にわざわざ「何かのために」生きなくても、生きていけるもんね。
自分の人生がゆっくり否定されてる感じする。何も分からない。自分の人生がっていうよりは今までで凝り固まった自分の人生観が否定されているのか。
なんかマジで何にも分からないし、それに対して他者に答えを求めたい気持ちもない。他人はわたしの疑問に対する答えを持ってない。し、たとえ「これが答えだよ」とお出しされたとて意味ないと思う。
何にも意味ない。何もかも無意味。
早く死にたい。
「自殺」のこと「極端な選択」って言うやついつから流行ってたの? 誰が言い始めたの?
報道倫理で「自殺」ってワードを出さないのは分かるけど個人が「自殺」って言葉を言うのを忌避してんのキモい。
本当にみんなキモい「大きな物語」に従属するのに何の抵抗もなさそうだし、従属するのが早くて上手いやつほど生き残れるシステムキモすぎ。この世のシステムがキモいしそれに平気で従ってるやつもキモい。キモい集団に迎合するのが処世術なんだったら死んだ方がマシだな。迎合できない爪弾き者って勝手に死んだことにされるし。
ずっと幽霊みたいだよ。生きていても死んでいても意味ない。仮に「生きてる」って他人から認識されていたとしてもそこにわたしの意思は関係ない。どこにも存在してないみたいだ。どこにもいない。
デカい物語に従属して自我なんかない方が「幸せ」なら毎日リストカットしてた方がいい。
日記纏めて個人サイトに上げてんのも意味ないよ。「意味ない」のがやらない理由にならないだけで。
あーあ。早く死んで楽になりたい。
アメリカ大統領選の結果とか兵庫県の知事選の結果見てると人間なんか早く滅んだ方がいいと思うしそういうニュースと“関係なく”“強く”在れる人だけが生き残れる社会なんだとしたらさっさと自殺してリタイアした方がマシ。でも“関係なく”“強く”いられて生き残ってる側の人に「無関係の話だから大丈夫」とか言われても何にも救われた気分にはならない。この世に無関係な話なんかないだろとしか思わない。でも善意の人にそんなことは伝わらない。
「苦しむ必要がない」みたいな諭され方するのがいちばん心が死ぬ。苦しんでることも全部無意味だって言われてる気がするしわたしの苦しみをお前がコントロールしようとするな。
結局わたしって誰かに養ってもらわなければ生きていくことができないし自分に文章書く才能あると思ってるけどそんなものはないしあったとしてもそれが何になるわけでもないし、自分一人の城を守れるだけの強さもなければ他人に奉仕できるわけでもない、何の役にも立たないブスバカデブババアなんだよな。ゴミすぎ。死ねばいいのに。ただ存在して浪費するだけの肉袋じゃんね。
あーあ。みんなはいいな。肉袋じゃなくて。ちゃんと存在に意味があっていいな。早く自殺して自分の存在の無意味さを証明したい。
わたしの人生空っぽ空虚虚無意味なし人生すぎ。今まで呪いに抗ったり奪われたものを取り戻すために生きてきたけどそうやってわたしがマイナスからゼロに戻ろうとしてる間にみんなは自分の人生の舵取りを自分でやってきてたんだ。本当にいいね。羨ましすぎ。空っぽ空虚虚無意味なし人生なんか早くぐしゃぐしゃに潰されて燃やされてゴミ箱に捨てられればいいのに。
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11/19 tue.
楽しくない。自分の人生を自分でコントロールしてる感触がなさすぎる。
一晩徹夜して朝から昼過ぎまで寝た。起きて谷川俊太郎氏の訃報を知り、悲しくて泣いた。著名人の訃報で悲しくなって泣いたのは初めてだったので驚いた。
谷川俊太郎氏が亡くなったことそのものが悲しいというより、彼の生死に関わらず彼が書いた詩が魂と赤い血の通った言葉としてわたしに語りかけてくることが、そしてその詩を書いた人がもういない、ということが、わたしも魂と赤い血の通ったにんげんだということを思い出させてくれるし、彼もそうであり、そうであるからこそ死が平等に訪れたのだと思わせてくれる。
谷川俊太郎の詩集と寺山修司の詩集ってずっと持っておきたいと思いながら買っていなかったので、いい加減買いたい。本屋で谷川俊太郎フェアとかやらないかな(不謹慎)。
と思っていたら本棚に一冊だけ谷川俊太郎の詩集があることを思い出した。BOOKOFFで買った古本の『空の青さをみつめていると』。改めて開くとページがずいぶん茶色くて、奥付を見たら昭和四十三年十二月二十日初版発行、平成六年六月十五日改訂十九版発行とある。30年前の本なん!? ヤバ
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11/20 wed.
昨日から谷川俊太郎の詩集を読んでいるけど、1950年代とか1960年代の作品が載っててびびる。「お前はたくさんの言葉を読み、その中には私の詩もあるがお前にとっては何の意味もなく、お前はお前の中に言葉が生まれるまでの沈黙に耐えられない」みたいな詩があって(抜粋ではないです)うつくしい拳で刺すじゃんと思う。
久々にフォロワーと通話する。以前はもくりがあったからもっと頻度高く通話してたけど最近はめっきりフォロワーと話すこともない。通話してる最中に友人への誕生日プレゼントをまだ注文していないことを思い出してサイトを開いたら、贈ろうと思ってたやつが軒並みSOLDOUTになっててびびった。すぐSOLDOUTになる可能性のあるネット注文、健康に悪すぎ。
全体的に買い物が下手。下手というか、買い物におけるグラデーションの調節が上手くいってない感じがする。前はたとえ上手くいかなくても被害を被るのは自分一人しかいないという開き直りから楽にやってたことが、上手くできなくなってる。そういう感覚ってやっぱり働くことでしか解決できないのかな。
ミームとしての“人権”の感覚が分からなくもないなと思うことがあって、ただそのとき使う“人権”という言葉は本来の「人権」の意味とは違い、何らかの尺度に沿ってまるで権利が与えられたり奪われたりするかのような錯覚のことを示しているのだけれど、ただ、それは実際には何の意味もない錯覚に過ぎないと言い切ってしまうには、あまりにも効力のある呪いだと思う。
自分が呪われている自覚はあり、呪われていることはくだらないことだと頭では分かっていても……。
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11/21 thu.
夜寒くなったのに上手く対応できなくて睡眠の質が悪い。ほとんど起きてた気がする。布団を重ねて重くすると息苦しくなってしまう。
朝昼兼用ごはんを食べながら『パワーパフ ガールズ』を観たが、食事中に観るべきではないタイプの回だったので後悔した。
やる気起きない。眠い。全然身体が動かないし頭も働かない。最近、急に冷え込むし、かと思えば急にあたたかい日もあり、振り回されてつらい。
唐突に昔家にあったMacで何周もしたゲームのことを思い出したけど検索してもそれらしいのは出てこなかった。わたしも覚えてる要素が少なすぎて検索窓に打ち込めるワードがなかった。あんなに好きだったのにこうも思い出せないものか。
悪夢ばかり見ていてつらい。寝ると体力が奪われるので寝るのが面倒臭い。
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11/22 fri.
所帯じみていく自分が記憶の中の母親に似ていくときすごい嫌だ。結局八つ当たり以外の感情の出力の仕方を知らないのが悪いとも思うしこうやって自分で自分の感情を狩ってるのが悪いとも思う。よく分からない。これ以上考えても自分を呪うだけな気がする。
「なりたい自分になりたい」という願望の『なりたい自分』像が現実の自分とはかけ離れた土壌で育った人間で、育ち・育てられの距離を思うとき暴れて何もかも壊して台無しにしたくなる。
自分が〈人生の舵取りを奪われ続けてきたことに怒ってる〉のか、〈人生の舵取りを他人任せにしている状況に甘んじている〉のか分かんなくなってきた。向いてない。
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11/23 sat.
感情がネガティブ方向へ発散していくけど多分PMSの症状。インターネットやめた方がいい。
朝早くに起きたが気分が鬱々としずっと無為な時間を過ごした。叩き起こすようにしてお膳立てされた風呂に入り、追い出すようにして自分を外に出した。
紀伊國屋書店に行く。『宝石の国』最終巻を買う。話題になってる特装版がマジで3,000円超えでウケる。単行本を買ったけど、そのあと最終話まで読んでなるほどこれは3,000円出してでも特装版買いたくなりますわなと納得した。
カプリティオが出してる『ウミガメのスープ』も探す。書店でボドゲを買ったことがないのでどこに陳列されてるのか分からない。1だけあったので買う。
なんとなくレシピ本が欲しいなと思ってコーナーを漫然と眺めたが、漫然とした気分で選べる訳もなく。誰かおすすめのレシピ本あったら教えてください。
星乃珈琲店で休憩しながら『宝石の国』最終巻を読む。配偶者が出版業界の仕事をしているおかげで刃物が無くても素手で新刊のビニール包み(シュリンクと言うらしいです)を剥がす術を心得ており、持つべきものは出版業界のカレシですわなガハハだった。星乃珈琲店でコーヒーとケーキを頼んで漫画に没頭する時間はとてもよかった。こういう時間がわたしの孤独を匿ってくれるんだろうなと思った。
近頃は餡のない肉まんみたいな状態が続いており、空っぽの中身に無理矢理不安や情報を詰め込もうとしているが、谷川俊太郎の詩に触れたり『宝石の国』を読んだりしているとそんなことは無意味だと分かるし、中身のないまま宇宙の無重力に身を任せてぼうっとする時間が、そういう時間を過ごす勇気が必要なのかもしれない、と思った。思ったけどそれを実行するのってむずかしい。無重力に身を任せながら心身の健康と両立させるのは。
自分の重心が安心できるところにあって、かつそれ以外は脱力できているのが望ましい。でも「自分の重心が安心できるところにある」ってどうやって確信するんだよそんなもん錯覚を信じるしかないじゃん。今のわたしには信じられる錯覚が少ない。
働きたい(働きたい訳ではない)と考えていてなんとなく求人を見たり就労移行支援に行く可能性を考えている。障害者雇用で求人検索すると介護世話人児童支援障害者支援って感じ。仮に障害者雇用という縛りを外したとてこうなのかな。偶に出てくる事務やデータ入力の求人は(応募して別業務に流す釣り求人なのかな……)という視点で見てしまう。
まだ書くことあるけど疲れたから今日はもう寝る。
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11/24 sun.
『宝石の国』のさいごを見届けたことで確実に人生の満足と孤独への理解が進んでる。
おおむかしのMacでやっていたゲームのことをふと思い出していた。すごく好きで何周もしていたのにまったく思い出せない。検索窓に入れるに足るワードもひねり出せない。なんか宇宙だった気がする。なんかステージ移動が本のページを捲るようにして行われていた気がする。言葉はなくて主人公も喋らなかった。「チュクンチュクン」みたいな音を出していた。
上記のことを兄にLINEで伝えるとすぐに答えが返ってきた。『ピクルスブック』というタイトルのゲームだったらしい。なんとiOS版があるとのこと。但し700円かかる。
むかしのMacのゲームを探していたら、すっかり忘れていたけど懐かしいゲームのスクショがゴロゴロ出てきて、よかった。
『ピクルスブック』を購入してプレイする。覚えている部分とまったく覚えていない部分があり、覚えてはいたものの記憶よりも表現の程度が強かったものなどがあった。虫の表現やその他気持ち悪いもの・怖いものの表現がかなり、ウッとなるレベルであった。言葉は一切なく説明もほとんどないがストーリーはある。だがストーリーよりもステージをタッチして反応するギミックの発見に重きを置かれているので、ストーリーの軽さに比べて大人の「問題を解決してストーリーを前に進めたい欲」はなかなか満たせず、自分が子ども心を失ったことをシンプルに突きつけられた。主人公・ピクル王子(主人公の名前ピクル王子っていうんだね、それすら知らなかった)が一流レストランで食事するシーンが子どもの頃は異様に好きだった。みんなも遊んでほしい。
日々に満足しているので日記を書く時間がない。寝る。